第72話   目 出 鯛   平成16年01月01日  

今日は平成16年の元旦である。

赤鯛は昔からお目出度い肴の代表であると一般に知られている。しかしながら正月を始め結婚式や祝賀パーティなどには必ずお目出度い肴として必ずお祝いの膳に並べられる様になったと云うのは、近世に入ってからと云う事は案外知られていない。

お隣の中国では鯛よりも鯉が、古来より目出度い肴の代表として珍重されて来た。その影響で長く中国文化を受け入れて来た日本でも、大体鎌倉時代頃迄は鯉が目出度い肴の代表とされて来たようだ。しかし、室町時代に入ると何故か鯉から鯛に変わって来るのである。それは貴族文化の時代が終わり、武士の文化が次第に浸透して来た事に関係がある。中国文化の影響から脱皮し、日本独自の文化への移行と考えられなくもない。同じ武士の時代であった鎌倉時代がその過渡期であったとも考えられる。

花で云えば奈良から平安時代前期の貴族が中国にならい愛でていた梅の花から、平安中期に至ると桜の花へと変わって行った。ちなみに奈良時代に成立した万葉集の花を見ると桜は40首、萩140首、梅は100種となっているのに対し平安時代中期に成立した古今和歌集の春の花の歌の約130首に桜は100首であるのに対してなんと梅は20首と大幅に減少し桜が増えてきている。これもひとつの中国文化からの脱却で花を愛でる事も国産化が進んでき来たからだと思えて来る。

パッと咲きパッと散る桜の花の散り際が潔いとして、多くの武士達により桜が迎合され浸透して来た時代が室町時代であつた。ことに江戸時代に入ると桜は日本の純国産の花であったから「花は桜木、人は武士」とさえ云われ、ことさらに脚光を浴びた。その桜の咲く頃に獲れるのが桜鯛であり、色も似ている事から自然と鯉よりも鯛の方が珍重されるようになったのではないかと考えられる。以後、鯛は魚の中の王様として扱われお祝いの席には必ず出されて食されるようになった。

庄内では赤い鯛は貴人の釣の対象とされ、殿様も魚の中の王者の三尺の赤鯛を目標に日々昇進をし、釣りたいと頑張って来たのである。庄内の殿様の釣では酒井忠宝公の赤鯛の最高は二尺八寸五分であった。